2022年4月23日、北海道の知床半島の沖合で26人が乗った知床観光船KAZU1が沈没事故を起こしました。
KAZU1を所有する桂田精一氏の経歴を調査した所、学生時代は規則の厳しい生活だった様子が見られ、その後は自由気ままな人生を送っていたことが明らかとなりました。
桂田精一高校は網走南ヶ丘高校「校則厳しい学生生活だった」
桂田精一氏の出身高校はFacebookにも書かれている通り、「網走南ヶ丘高校」です。
網走南ヶ丘高校について調査をしていくと、「校則が厳し過ぎる」という声が見られました。
『校則
厳し過ぎる。前日前髪を切ってもよくわからない基準で注意される。寒くなってきて暖房が入っていないのに夏用のニットの着用しか許されない。カーディガンに対し執拗に禁止する意図が謎。』
『校則
月1回の身だしなみ検査の前髪チェックが異常に厳しい。巻いてて前髪長いの隠しててもOKされる子や、明らかに短くて眉毛見えてても横の一部が少し長いと再検査くらうことも。』
『校則
地毛が茶色の子に向かって本当は染めてるんじゃないのか?ってしつこく言う先生がいる。染めてないのに…って泣きそうな声で』
『校則
厳しいです。毎朝先生方が玄関に立ちチェックする他に月一で頭髪検査があります。基準にそっていても注意されることが多いです。』
頭髪に対するチェックが異様であり、気候に対して服装を変えることでさえも許されない環境です。
桂田精一氏は1963年6月29日生まれの58歳。
高校は1982年に卒業しておりますが、ちょうど桂田精一氏とほぼ同じ時期に網走南ヶ丘高校を卒業した人物に取材をした所、「細かいことに厳しい学校だった」ことが明かされています。
網走と言えば、過去に「網走監獄」が存在していた場所。
日本最恐の監獄とも言われ、最も厳しい監獄のあった地域です。
そんな厳しい慣習が網走南ヶ丘高校にもあったのでしょう。
きっと、網走南ヶ丘高校を卒業した桂田精一氏もこうした校則の厳しい学生時代を過ごしていたに違いありません。
【追記】桂田精一は不真面目だった「鉄三氏の権力で特別扱い」
桂田精一氏の通っていた網走南ヶ丘高校は校則が厳しいと評判の高校。
しかし、桂田精一氏に関しては授業中に居眠りや不良ファッションをしていたことが書かれておりました。
「彼は学内でも珍しい下宿生で、教室の後ろでよく寝ていましたね。応援団のメンバーとして野球部の試合で応援歌を歌ったり。でも、積極的にみんなの前で何かをやるタイプではなく、服装だけ不良っぽくする“ファッション不良”でした」』(週刊文春『知床26人遭難“強欲一族”の罪「波が高くても行かせろ」』より抜粋)
父親の鉄三氏と同じ高校であることも同時に書かれており、明らかに素行不良な様子が見られます。
鉄三氏は2003年から2019年に至るまで、斜里町の議員を務めた人物。
議員の特権の強さはしれとこ村ホームページにも記載されている通りです。
「なぜこんなに安いんですか?」
「オーナーが遠音別神社神主で町議15年目の現役議員の人脈で、地元旬の地産料理をお値打ち価格で提供できるからです」
以上からも、桂田精一氏は厳しい網走南ヶ丘高校であるにもかかわらず、鉄三氏の権力の強さで学校でも特別待遇だったのでしょう。
しかし、桂田精一氏は鉄三氏によって、寵愛を受けて甘やかされていた人物。
『地元の“名士”として成り上がった鉄三氏の寵愛を受けて育ったのが長男・桂田精一氏(58)である。精一氏は地元の小中学校を卒業後、79年、父と同じ北海道網走南ヶ丘高校に入学。同級生が振り返る。』
網走南ヶ丘高校の忖度が働いていたとはいえど、精一氏にとっては十分厳しい学校生活だったに違いありません。
桂田精一大学は茨城県笠間陶芸大学校「趣味を仕事にしたかった」
桂田精一氏は網走南ヶ丘高校を卒業後、茨城県工業技術センター窯業指導所(現:茨城県立笠間陶芸大学校)へと入学しました。
茨城県笠間陶芸大学校はFacebookにも紹介されている通り、陶芸に重きを置いた学校。
桂田精一氏の運営するブログにも「陶芸品」を紹介する様子が幾つか見られます。
『#東京 に来てます。
#国際フォーラム で
#骨董市 がありまして
古くて頭のてっぺんが#禿げた #羊 の
#お人形 がありまして
すごくめんこかったですが
お値段が高くて
諦めました。
すっごく#かわいかった なぁ
禿げてて(笑』
桂田精一氏は自身の運営する旅館「国民宿舎」のブログにも骨董品や陶芸品を載せる程であり、陶芸好きな様子が見られます。
桂田精一氏は「有限会社しれとこ村」を経営する前は陶芸家だったことが既に明かされています。
【関連記事】有限会社知床遊覧船社長は桂田精一氏「経営ど素人の元陶芸家」
桂田精一氏は鉄三氏の特権によって、多少の忖度が働いていたとはいえども、網走南ヶ丘高校という比較的校則の厳しい学校に通っております。
きっと、桂田精一氏はその反動故か、卒業後は自由気ままな趣味の世界に没頭したかったのでしょう。
桂田精一陶芸家時代は「自由気ままな人生を過ごしてた」
桂田精一氏は平成28年に「有限会社しれとこ村グループ」の社長へ就任したことが明かされています。
【関連記事】有限会社知床遊覧船社長は桂田精一氏「経営ど素人の元陶芸家」
桂田精一氏が社長へ就任する以前は知床の様々な風景を撮影しており、知床生活を満喫している様子も見られます。
『幻の旧ベアログでもちょっと書いたんですが、
この辺の木は可愛すぎなのです。
この、ひょろろろっとした木が一直線に並んでいる景色がたまりません。
雪原に伸びる影もたまりません。
寄り道ばかりでガソリン代がかさんでお金もたまりません。
道東はこんな木がたくさん。
個人的には飛行機で女満別空港に降りる直前、
上空から見える木とその影が一番好きなんですが、
あいにく着陸前後は写真を撮れないので、是非ご自身の目で確かめて下さい!
お気に入りの木を探してみては♪♪』
『雨見ただけで、いとをかし・・・(笑)。』
知床の木々や風景について、堪能している様子は楽しそうにも見られます。
桂田精一氏のこうした自由気ままな様子も同様に、網走南ヶ丘高校の厳しい校則の反動故だったのでしょう。
桂田清一社長時代は自由気まま「細かいことは気にしない楽観主義者」
桂田精一社長が就任してからのブログの記事を見ていくと、雪が積もり始めても食事を楽しんだり、冬の流氷に乗って遊ぶ様が見られました。
『昼に焼肉をしてみました。
そうしたら雪がドカドカ降って来ました。
でも折角だから
そのまま続行。
まあ、たまには
こういうのもいいですね。
(2017.12.16)』
『また流氷が接岸しました。
今回も本格的ではないですが、
これから大きいのが来るでしょう。
私たちも興奮し、折角なので
流氷に乗って遊びました。
海の深いところは、危ないので
浜のすぐので遊びました。
(2018.01.29)』
桂田精一氏は「有限会社しれとこ村」の社長になってからも細かいことに気にしない自由な性格が表れておりました。
実際に桂田精一氏は斜里町商工会でも副部会長に選ばれ、商工会役員永年勤続表彰もされるほどの人物。
きっと地元ではそこそこ権力もあり、発言権もあったのでしょう。
故に、自由気ままな生き方だったことも相まって、謙虚な姿勢を忘れてしまったに違いありません。
知床遊覧船KAZU1の管理体制が不十分な理由もまた、こうした桂田精一氏の自由かつ楽観的な考えと生き方にあったのでしょう。
その体制の甘さ故、KAZU1に亀裂があっても「大丈夫だろう」と放置していたことも否めません。
まさに楽観的考えで取り返しのつかない事故を引き起こしてしまったと見てとれます。



コメント